昭和49年04月01日 朝の御理解



 御理解 第3節
 「天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず、神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受けおる。この度、生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたす事、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つ様に致す。」

 この御理解第三節は、御理解の中でも大変大事な御理解として頂いとります。是は天地の親神様から教祖金光大神が直々御裁伝によってお受けになられた御理解だと云う事です。そう云う意味で大変、御理解三節は大事なと云う風に言われております。正しく確かに大変大事な御教えだと思います。どの御教えでもどの御理解でも大事じゃないと云うのはありませんけど、とりわけ私共総人類の者が此処の所に基ずき、此処の所解らせてもろうて、おかげを蒙らせて頂いたら、有難い事になって来ると云う様に思う。
 第一「天地金乃神と申す事は、天地の間に氏子おっておかげを知らず、神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所、その訳知らず方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受け居る。この度、生神金光大神を差し向け」と、どこを読ませて頂いても、大変な事と思うんです。最近ここで言われとります、二十五年後に地球が破滅するとか、又は、総人類が総決算の時であって、地球上に人類が無くなってしまう程しの事が起きて来るんだと、四百二十年も前にある予言者が予言をしておる。
 その予言者の言うておる事が的確に、ここ四百年余りの間に起きて来ておると云う、その的確さは九九%だったと言うんですから、だからこの予言者が言うておる通りに二十五年後に、しかも何月何日が地球の最後の日と云う様なです。予言をしておると云う様な事を、只そんな事があるものか、その時はその時と言った様な、私は安易な考え方ではいけない。教祖の神様を通して天地の親神様は、いわば百数十年前にその事を見通してこの御理解第三節を下さっておると云う様な気が致します。
 どうしてそう云う事になるのか、どうして地球上の人類が破滅してしまわなければならない様な事になるのか。それは天地の間に氏子おっておかげを頂くと云う所なんです。天地の中にお生かしのおかげを頂いておって、天地の御恩恵を受けなければ、もうそれこそ一分間だって生きられない程しのおかげを頂いておるのにもかかわらず、いかにも自分の知恵やら力で生きておる様に思うたり、それこそ此処に、神社仏閣の家屋敷、みな神の地所と仰るのは、これは神社仏閣だけではありませんよね。
 その、私どもの住まわして頂いておるこの地球全体が、天地の親神様のお屋敷なのです。そのわけを知らずに、これは俺の地所だ、これは何何様の境内だと云う様な考え方がもう根本的に間違っておるんだ。特に日柄方角を言うと言った様な事やらは、それこそ天地の間におかげだけしかないものを、自分で勝手に今日は悪い日のよい日のと言うたり、方位方角を言うたり、もう大変、大それた御無礼の考え方を一掃して、改めて言うなら人間の思い方考え方の根本的間違いをここに諭された。
 そういう御無礼が人間の難儀の一番根本だと此処では説いてある。人間の思い違い考え違い、それが天地に対する所の御無礼だと、だからその訳を「生神金光大神この度差し向けて、願う氏子におかげを授け」と言うのは、所謂お願いを皆さんがお取次を願われおかげをまず渡しておいて、天地の言うならば働きの根本原理とでも言う様な、その理解がこの教典なんです。言うなら天地の道理であり、天地の御恩徳が教祖金光大神様を通して、私どもに判らせて下さっておる。天地の御恩徳を判らなければならん。
 だから御恩徳の満ち満ちておる所に人間がケチを付けたり、ここは俺ん所の地所とか、良い日の悪い日のと云う様な根本的な間違いを諭しておられる。人間の此処ん所を解らせて頂いて、天地の御恩徳に対して、神恩奉謝の生活が出来る様にならせて頂いたらです。二十五年後の例えばその予言、そういうことに今のままで行ったらこう云う事に、そう云う事にもなろうけれどもです。神様が前以てお知らせ、予言者を通して下さってあるのですから、私どもの心がけが変わって来る所からです。
 又天地悠久のおかげを頂かせて頂く事になる。天地は言うならば本当に言うたら始まる事もなければ、終りも無いと云うのが天地の実相なんです。いくら言うて聞かせても、いくら言うて聞かせても、難儀を与えてお気付け下さっても、それをお気付けをお気付とも悟らずに、天地の大恩も判らずに、御粗末な事を言うたり、御無礼な事をしたりする所に、言うならば、天地が大きく総人類上に御気付けを下さっておると云うのが、私が四百二十年前に予言者を通して予言されたのは、そう云う意味がある。
 そこで教祖生神金光大神を百数十年前に「この度金光大神を差し向け」と仰る。この度言うならば、金光大神を差し向けて、そして願う氏子におかげを授けてやろう。そして天地の道理も、その訳も知らないでおるのですから、理解申して聞かせ末々までも繁盛いたす事と仰るもう限りが無い。末々迄も人間が愈々繁盛繁栄の道を辿らせて頂けれる、そういう大変な道を教え様と言うておられる訳なんです。
 そこでそれをなら具体的にですね、天地の大恩を知り、その大恩に対して報いる心がけとか生き方と、天地の御恩徳を判らせてもらって、その天地の御恩徳に感謝しながらの生活ですけれども、それをなら具体的に言うたらどう云う事になるかと云う事です。今日は四月一日の御月次祭に併せて勧学祭が御座います。私はこの勧学祭はもう本当に学問の道と言うんですか、それぞれの幼稚園から大学まで、それぞれの教育を受けます。小学校、中学校はそう云う事は無いでしょうけれども。
 矢張り高校、大学となるとやはり出来なければ落第と云う事になるのです。去年の九大の落第生は特に多かったそうですね。例えばラ・サールあたりのあの有名高校から入学した人達でも沢山落第生が多かったそうです。だから大学にはようやく入学したものの又一年間同じ学校、同じ勉強せんならんなんて、それは馬鹿げた話ですけども仕方がない。そこで私は勧学祭と言うのはね、そう云う入学はした。
 これからの学問を本当に身に付けて行く事のために、言うならば、落第せんで済む様な成績を上げる事のための願いだと思うのです。観学祭は。例えば是が本気で皆がね、特に大学なんか一生懸命お願いに来ました。そしておかげで入学のおかげを頂きました。だから、入学のおかげは頂いたけどれも、又一年生を二編もせんならんと、云う様な事であってはならない所にこの観学祭があると思うんです。
 だからどうでも一つこの観学祭に、例えば八月三十日の大祓式に交通安全を願って、例えば車なら車のお祓いをさせて頂くおかげで、一年間おかげで皆が無事に、言うならば大難は小難で、小難は無難でおかげ頂けれる様な、おかげ頂ける様に勧学祭のおかげを心を込めて、頂かせて頂いたら、おかげで落第はせんで済むと云う様な、おかげを頂けれるのが、勧学祭だと思います。
 これはまあ今日の御理解からですと、余談になりましたけれども、観学祭と云うのはそう云う意味があるのです。そのお祭りが今日月次祭にあわせて、朝の午前十時半から行なわれます。それでこう云う勧学祭、学業成績心身健全祈願と云う事になっとりますから、これを全部皆さん、学生の居られる所は、改めて出しておられない方は出して、そして祈願を受けなければなりません、そう云うお祭りです。
 それからそのお祭りを済まわせて頂いて、昨日から、その勧学祭の前夜祭的な丸少の方達によって、大変にぎやかなパーティーなんかが開かれた。後は今度丸少を出られる人、入られる人の歓送迎を意味しての色んな会食なんかもあったわけです。丁度今日のお祭りの前夜祭の様な事であった。そして今日のお祭りに入って行く訳ですけですけれども、そのお祭りが済みまして、丁度今日は皆さんも御承知の様に私の誕生日に当たるのです、丁度満六十才にならせて頂いた俗に言う還暦であります。
 ですからそれの祝賀の、祝賀パーティーがあると云うのです。私は誕生すると云う事はね、皆誕生日それはお客さん呼んで、そして尾頭付きを作ってもろうて、お赤飯を炊いて、御祝いするということは、あれは御祝いをするんでなくて、お礼を申し上げる事だと、神様に尾頭付き付けにゃいけん、神様にお赤飯お供えなきゃいけん。この世に生まれて来てから天地のお世話になっとって、自分が祝うなんて却って天地の邪魔になっとる。だから私は誕生と云うのは。
 銘々でする御祝いではいけないと、神様が祝福をして下さるものでなからなければいけん。お前がこの世に生を受けて、この世に出て来たので此処で言うなら、私の誕生に大坪総一郎が誕生して、この世に出て来たおかげで、此処では沢山の人が助かる様になった、神の手足にもなってくれて有難いと云う、神様のそう云う感謝を込められた願いが、今日の祝賀パーティーと云う事にならなければならない。
 昨日当たりは今日御参り出来ないからと云うて遠方から祝電を頂いたり、又は誕生の御祝いの物のを頂いたり、御祝いの印にと色々と、皆さん心を使うて下さる。そこでそのことを、今日神様にお礼申さして頂いておりましたらね、三波春夫という歌手がおるでしょう。あの人が言い出した事ですけれども、「お客さまは神様だ」と言うんだそうですね。その事を頂くんです。ですから今日は例えて言うならば、どう云う事になるかと云うと、今日の信者さんは、私に取っては神様だと云う事になるのです。
 今日はだからあなた方をこちらへ上げて、私は拝まにゃならんごたる感じです。「お客さまは神様だ」と三波春夫が言うたそうですが、大坪総一郎は「信者の、氏子の皆さんは今日は、信者の皆さんが神様だ」と言う事になる。皆さんが祝福して下さる。パーティーまで開いて下さる。それは皆さんが開いて下さるのではない。神様が祝福の意を現して、皆さんの上にそのように現われて下さるのです。そうでしょう。私が皆さんに今日は私の誕生日だから、どうぞおいで下さい。
 今日は誕生日だから御祝い下さいと云う事は全然無かったでしょう。皆さんが祝福して下さると云う事は、そのまま神様が、皆さんを通して、私の誕生を祝福して下さるのです。ですから、例えばそういう、御祝いの品を貰うたり、御祝いの包みを頂いたり、と云う事だけがなら神様ではなくてです。それとは反対の場合であっても、自分の周囲の皆が神様だと云う事になって来ると云う頂き方です。そう云う頂き方がです。今日私が皆さんに聞いて頂きたい。「理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたす事」と仰る。
 そう云う理解を話しして下さるのです。事柄でも御事柄として受ける生き方です。自分のためには敵役の様に思うておった、自分の眼には鬼の様に見えておった、その人もやはり神様の姿、神様を通して、その人があるんだと云う頂き方になると、私の周囲の総てが、三波春夫ではないけれども、お客様だけではない、信者さんだけではない、その皆が神様のお姿だと云う頂き方になるのです。
 そう云う頂き方こそが、間違いのない頂き方、なら事柄の上に於きましても、御の字を付けて御事柄と云う頂き方がです。云うならば理解申して聞かして下さるそのぎりぎりの、是は芯です。起きてくる総ての事は、神様の御働き御事柄として受けて行かなければならんです。勿論あれは良いの、是はいけないのと、あの人は好きなの、あの人は嫌いなのと言うのはいけない事なんです。
 先日から、安東さんの所の家移りの事に付いて大変いろんな問題が御座いました。おかげで昨日無事にあちらに家移りが済みました。それはそれに付いて私は、あちらにお祭に参りまして、入ってから、もう素晴らしいお家である。日頃の安東さんの御信心に相応しい立派なお家である。自動車の倉庫まで、まるで人間が住んでおる様な自動車の倉庫が付いておる。と言うて、帰ってから報告を私受けましたが、その問題がある時に神様に私がお願いをさせて頂きました一番最後に。
 昨日一昨日でしたか、その時にその問題の事を神様に私お願いさせて頂きましたら、御の字を頂いたんです。はあ是は大家さんの誰々さんの家でなんてんと云う考え方ではなくてです。神様の御家だと云う事です。神様の御家だと頂いた時にです。もうそれこそもう心の中に明るい開けて来る者を感じます。なら皆さんの家も、是も私の家なんて思わずに、神様の御家と思うから、その家も大事にせねばおられない。
 清めもしなければおられない。と云う事になるのではないでしょうか。ね。「氏子の家屋敷皆神の地所」と仰られます。家でも屋敷でもそれは神社仏閣のここは境内だ、ここは天満宮様の境内だじゃなくて、成程天満宮様の御宮はそこにあろうけれども、それは全部天地の親神様のお屋敷であるんだぞと、御地所であるんだぞと云う、もう愈々間違いのない頂き方なんです。
 御理解第三節はそう云う間違いな事を間違いな心で受けておる所をです。家に限らず屋敷に限らず、事柄に限らず人に限らず、全部神様のお姿と見る。言うならば神の声と聞く。神様の御家であり、神様が私に下さる御事柄であると云う頂き方を人間が身に付けさせて頂いて、神恩奉謝の心で生活させて頂くならばです。是は言うなら、二十五年後に人類は破滅、今の様な生き方で行ったら破滅に、言わばそんなに間違いの無い予言者が言っておる事ですから、そうなるかも解りません。
 けれども百年も前に天地の親神様この度金光大神を差し向けてそう云う大変な事を教えて下さる。理解申して下さる。おかげを頂いておる金光様の信心者、信奉者がです。そこの訳を解らせてもろうて、神恩奉謝の生活に入らせてもらう。そして、おかげを受けてそれを世界中に広げて行こうと云うのが、和賀心時代を世界に広げて行こうと云う事になるのです。しかも、もうあと二十五年しかないのだから。
 本気でまず私達が頂かなならん。まず私から頂かなならん。まずは合楽の信奉者全部がまずは此処ん所を頂かしてもろうて、それを言うならば、世界中の皆さんに聞いてもらうだけでも、合点してもらうだけでも、合点してもろうて「末々までも繁盛いたす事、氏子ありての神、神ありての氏子上下立つ様に致す」と言われる程しのおかげを頂き続けなければならないと思います。
   どうぞ。